30km/h

Menu / Hatena 

 


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

別れる女
「別れることにした」
乾杯のあとの最初の言葉がそれだった。
久しぶりに連絡があったと思ったらこういうことか、と思った。
「ほんとうに?」
「別れることにしたっていうか別れることになった、というかんじ」
彼女は結婚して二年目だが、彼との交際は長く、結婚するまでに八年付き合ったといっていた。
「なにがあったの?あなたが別れたいって言ったの?」
「言い出したのは彼のほう。なにがあったかって?なにもないわ。離婚しなきゃいけないっていうほどの理由は思いつかない。不満があるなら教えて、って言ってみたけど、一言では言えない、だって。一言では言えないほどたくさんあるわけじゃなくて言葉ではうまくいえない、って。そんなぼんやりしたことを言われたって納得できるわけないのにね」
わたしはドレッシングのかかりすぎたトマトを飲み込みながらうなずく。
「毎日いっしょに食事をして週末にはふたりででかけてたの。大きなけんかだってなかった」
「うん」
「浮気はされてない、そういうことがあれば気付くと思うから。だけど好きなひとができたのかもしれない。それでわたしと別れてそのひとと付き合うつもりなのかもしれない。そうすることが決まっているのかもしれない」
そうすることが決まっているなら浮気をされていたということでは、と思うが口には出さない。
「本当はそんなことないって知ってる、わかりやすい理由が欲しくて言ってみただけ」
そうだろうとわたしも思った。
ほとんどわたしひとりでサラダの皿を空けたところで次の料理が運ばれてくる。海老と空芯菜の炒め物、黄色い餡のかかった蒸し魚。いただきましょうか、と顔で訊いてみたが彼女には届かず、わたしだけが箸をつけた。
「修復はできないの?」
「わたしたちの関係が修復の必要なものになっているということにも気付いていなかったのよ、わたしは。これ以上続けられないって一方的に告げられて、考え直してほしいって泣きついたって、もう戻れないところまで来ているんだ、って言われるんだから、どうすればいいのかわからなくなるわ」
「そうだね」
「これ以上いっしょにいられないって思うくらい我慢させてたんだと思うとすごく傷つく、わたしが。その上なにを我慢させてたかもわからないんだから。どうして言ってくれなかったの、って思うよね。思わない?」
「思う」
そこで彼女は黙ってしまって、わたしは皿の上にひとつだけ残っていた春巻きを片付ける。なぜだかわからないけれど、光の届かない海を泳ぐ、鱗のない深海魚のことを思い浮かべた。
「残念だね」
ほんとうに残念なことなのかわたしにはよくわからなかったけれど(彼女がかなしんでいることはよくわかったけど)、何を言えばいいのか思いつかなかった。
「こんなことになるなら十年も付き合わないでさっさと別れておけばよかった。こんなこと言っても仕方がないけど」
こういうときに、言っても仕方のないことを言いたくなるきもちはよくわかるとうなずきながらメニューを差し出す。彼女は二杯目の酒を注文し、わたしは彼女の取り皿の上で冷えていく魚の身を気にしている。
スポンサーサイト
<< NEW | TOP | OLD>>
Menu